[千品山林社]

山の歴史を、ひも解く

山は代々受け継いできたものです。その経緯をかいつまんでご紹介します。

和歌山県田辺市の新庄という地区に私の家はあります。

地域の方がまとめておられる郷土史によると、この地域は古くから商人が多く、山間部から燃料や木材を仕入れ、大阪や関東へ販売するような商売をする家が多かったようです。

私の家も、倉庫や蔵からそのような記録がたくさん出てきますので、細々とそうした商売をしながら、自給自足で生活し、余裕があれば山林を購入して少しずつ少しずつ生活の基盤を固めていったようです。

この山は、そんな山林の一部です。

曽祖父栄吉の帳簿「鮎川・栗栖川杉檜山台帳」。解読はできていません…。

山林の取引などの記録が残っています。

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現状、多くの山林は「木を育てる場所」として使っています。

皆さんご承知の通り、木が育ち、収穫し、木材として利用できるようになるには60年以上かかります。

木を育てている間も生活をしなければならないので、昔から我が家では、木に頼らないよう、生活のポートフォリオをしっかり持つように教育されてきました。

日々の生活は会社員の収入から…ということで、私の場合、高校卒業後は一度社会に出たのち、24歳から28歳まで大学で林学を学びつつ、関東にある会社で商品開発の仕事を15年以上続けさせてもらっています。

しかし、これまで父と協力して管理を行ってきた山林も、そろそろ次の世代のことを考えた山づくりをする時期にきている状況です。

学生時代、木材工学の実習で合板原木の歩留まり向上に取り組んだときの写真

全国の林業地を巡っていた頃。宮崎県諸塚村の針広混交林(モザイク林)をバックに。

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山主としての自覚が生まれる

実は平成11年まで、私は所有山林の事は全く知りませんでした。

祖父が亡くなったことをきっかけに、所有山林について知り、林業面白そうだな、と思ったのがすべての始まりでした。

当時勤めていた会社を退職し、大学で林学を学びながら所有山林の調査を始めました。

大学を卒業するとき、地元・田辺で仕事をしていくかどうかとても悩みましたが、今の会社と縁があり、お世話になることにしました。

自宅のある埼玉県さいたま市と、生まれ故郷の和歌山県田辺市を行き来しながら、所有山林の調査や管理だけでなく、今後の活用方法について地元の方と意見を交わしたり、様々な林業地を回ったり、森林活用の勉強会に参加するなどして、知識を得る活動を行っていきました。

祖父の時代からお世話になっていた山守さんとともにデジタルノギス(測定器)を開発も、残念ながら製品化には至らず(2002年頃)。

現在ではGPSのトラッキングデータとGIS(国土地理院の地理情報システム)を駆使して所有林を管理しています。

これはこれで充実した日々でしたが、その間、木材価格はずっと低迷したままで、山林の価値はどんどん低下していきました。

木材価格が低迷する中で、木材生産に使い道が限られている山林を持ち続けることに意味があるのか…という思いも芽生えてきました。

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使い道が限られ、負の遺産となりつつある山林
困り果てたとき、一筋の光が…!

そんなとき、田辺地域で林業や山村の課題を新たな視点で解決しようと活動されている方々とお話しする機会を得て、山林における木材生産以外の価値を求めている人たちがいることを知りました。

また、改めて視野を広げてみると、大学時代の仲間や、林業関係の仲間には、森林の空間利用に取り組んでいる方々が多数いることにも気づきました。

こうした出会いや気づきを経て見えてきたのは、これまで自分自身では全く考えてもいなかった「 森林空間利用」というニーズです。

少々堅いお話ですが、内閣府の

「森林と生活に関する世論調査」 https://survey.gov-online.go.jp/r01/r01-sinrin/2-2…(R1年)

においても、ウォーキングやランニング、幼児教育など、様々な用途に活用したい、という意向が読み取れます。

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